2006年12月12日

具メス

いきなり批判的な話から入るのもなんだがこの際はっきり言わせてもらおう。

昨日夜八時、最寄り駅に着いた僕はゆっくり歩きながら家に向かった。
家間での距離は徒歩でおよそ8分といったところ。
マフラーを首と顔半分に巻きつけ肩をすくめるように歩いていた。
駅からの帰りは多くの人と同じ道をとおることになる。
目の前を7〜10歳位くらいの男の子とその父親が歩いているのが目に入った。
おそらく塾にでも通っている息子を駅で迎え、そして一緒に歩いて帰っているのであろうと思われる。
その親子はまったく何も話さずに僕の前方を歩いていた。
父親は息子の数歩分前を歩き、息子は足元の石ころをけったり草を踏んだりしながら歩いていた。
二人ともまったく無言だった。

そこには親密な空気もとげとげしい敵対も無かった。
まったく二人の関係がどういうものなのかわからなかった。

そしてそれはおそらく正しいことだろうと思ったのだった。
正しいことというのは親子が何も話さずにただ歩くということが正しいということでは無くて、その親子が一体何を考えているのか、何か共通の感情を持ちながらの無言なのか、そんなことはわかるわけが無いとおもったことが正しいということである。

とある人はその無言の二人を眺めて言葉など交わさなくても分かり合えるであろう親愛の情などといったものを想像するかも知れないし、実際その親子はその親愛の情を感じているのかもしれない。
またとある人は面倒なことをやらされている男親の不機嫌をなんとなく感じている息子のやりきれない無言を感じ取ったかも知れないしそれはそれえ正しいのかもしれない。
その両方の要素が混ざっている場合もあるだろうし、
そもそもひとつの状況をひとつの要素や視点などから解き明かすことは不可能なことだということでもあるかもしれない。

で、結局何がいいたいかといえば、他人のことなんてわからねえなあ、ということである。実際自分が幼少時代に親父と何か共有したものがあったかなあ、と思えばやっぱりよくわからんなあ、と思うのである。

で、本題。

子供が自分から学ぶことというものは、自分が何をしたか、ということだけで、行動しない大人からは何も学ぶことなど無いということである。

それについてはまた今度。
posted by 吉野屋銀之助 at 16:15| 小説・消えた宇宙の真理 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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